VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(23)

by J.I.
今日は憂国忌である。

一年前の今日、私はこの
三島由紀夫を読み返す」
というシリーズを始めさせていただいた。

始めようと思った原点は、
いまの日本の精神医療における男女不平等であった。

男性の精神的被害が、
治療の対象としてまともに取り上げられない。

それはいったいなぜであるのか、
いろいろと考えてみた。

考えてみると、理由の半分ぐらいは
男性自身にあることがわかった。
男性が、被害を否認して訴えないのである。

では、それはなぜかと考えるのに、
男性は被害を訴えないように
幼いころから教育され育成されてきたからであることは
自明であった。

男性がみずから
そういう損な役回りを背負いこんでいるのである。

背負いこむことが、価値あることだとすりこまれ、
自らもそのように考えるようになってしまっている。

その結果、男性は感情を言葉にすることができず、
憤懣や鬱屈は、
アルコール依存や仕事依存や性犯罪や
かゆみや痛みなどの身体表現性障害で表に出している。

そのような社会ぐるみのすりこみプロパガンダの道具としては、
任侠映画や戦争映画がわかりやすいが、
そういうものを小馬鹿にしているインテリ層はどうか、
というと、
これまた男性性という一つの虚構を賞揚する
多くの作家や理論家をあがめていたりする。

ことに、私のように1960年代生まれの日本人男性にとっては、
幼少期に痛烈な印象を刻印した存在として、
三島由紀夫は避けて通れないことに気がついた。

のちに、これはもっと上の世代の日本人男性にも
共通する現象だとわかってきた。

ちょうどキリスト教徒がことあるごとに聖書を引用するように、
何かというと三島の言葉を引用するのである。

「私はこう思う」
というのではなく、
「三島はこう言っている」
というかたちで物事をいう。

ところが、引用した時点で、
それは「三島は正しい」という前提で引用している。

しかし、引用された言葉をよくよく考えてみると、
それは三島特有の「言葉の錬金術」の産物であったりする。

「治りたがらない病人には、病人の資格がない」

などは、その最たるものである。


浅田彰は1980年代に、

「三島は、今日まで生きていれば
 そんな大した問題になるような作家だったと思わないけど」

といった(ような気がする。典拠が挙げられない)が、私はそうは思わない。

やはり、三島は私たちの世代にとっては、
賞讃するにしても、批判するにしても、
避けては通れない、
いわば宗教に近い存在なのである。

じじつ、三島は神になりたかったのではないか、と思う。

遺作とされる『豊饒の海』(全四巻)のあと、
三島は『藤原定家』という作品を書こうとしていた、
といわれる。

それは、神のような歌を詠み、
みずから神になろうとした詩人の物語となったことだろう。

だが、それは、
三島自身が神になろうとしていたからこそ
書かれうる作品であったように、
私は思うのである。

そこまで、すさまじいナルシズムは
そうそう持てるものではない。

この劇薬を、
ひょんなことから思春期に口に入れてしまった私は、
たちまち中毒になってしまったが、
歳月とともに解毒され、
耐性のできた身体でふたたび
あのときの劇薬をかじってみたら、
「日本人の男性」にまつわる、さまざまな事実があらわになっていくのではないか、
と期待を持ち、このシリーズを始めたのであった。

あちこち寄り道をしてチマチマと続いてきたが、
これからも細く曲がりくねった道をたどり
続けていくつもりである。




・・・「三島由紀夫を読み返す(24)」へつづく
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