VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

父から逃げられない私(49+)続 同窓会への恐怖・負け組からの発信

父から逃げられない私(49)」からのつづき・・・

editted by J.I.(ぼそっと池井多)
 
痴陶人:
私はよく、
泥だらけの作業着や全裸で同窓会に出席する悪夢を見ます。

特に、このブログでナガレと出会ってから
その頻度が増したような気がします。

分かりやすすぎる象徴夢で恥ずかしいくらいですが、
私には勝ち組に身を晒す勇気はありません。

例え勝ち組でなくても、
血糖値や娘の反抗期の話、
家や車のローンの話を聞くのも
私には堪えられないように思います。

家や車や子供、それは私と無縁でしたし、
健康も考えている暇がなかった。

だからと言って、
私の半生が、同窓生より下らなかったとは思いたくない。

ただ、このように生きてしまった私をあれこれ詮索されたくないし、言い訳のようなことや強がりのようなことは言いたくない。

ただ、ぼそっとさんの仰言るように、
彼らも私と大差なく、闇や鬱屈を抱えて生きている気はします。

離婚して鬱を発症した奴もいるかもしれませんし、
会社を馘首になり自殺を考えている奴もいるかもしれませんし、
裕福に暮らしながら、
息子のヒキコモリをひた隠しに生きている奴も
いるかもしれません。

彼らとて所詮は弱い人間、
恐るるに足りないと思うのですが、
恐らく私が同窓会に出ることは一生ないでしょう。


[ 痴陶人 ] 2016/12/14(水) 午前 6:05
J.I.:

痴陶人さま コメントをどうもありがとうございます。

このように生きてしまった私をあれこれ詮索されたくないし、
言い訳のようなことや強がりのようなことは言いたくない。

ここは、私にも痛切に突き刺さってきます。

ただ、私の場合は、
この前半後半が乖離しているのです。

このように生きてしまった私をあれこれ詮索されたくない

まさに私もそのとおりです。

詮索したところで、
共感も理解もしてもらえないのであれば、
彼らの好奇心の餌になるためだけに
現在の自分をカミングアウトしたくないです。

私が「なりすまし市民」をよそおって、
近所の人たちにもほんとうの姿をさらさないのも、
ここに理由があるのでしょう。


しかし、後半の

言い訳のようなことや強がりのようなことは言いたくない
に関しては、
私はおおいに言ってしまっているのでしょう。

それを私は、
私が私になった経緯の説明責任を果たすことと位置づけています。






秋葉原事件を起こした加藤智大死刑囚は、
何人もの無関係な市民を殺傷し、獄の人となってから、
彼が、彼のようになった経緯の説明を
怒濤のような勢いで書き始め、
何冊も本を出しています。(*1)

*1.そのうちの一冊
加藤智大 著『殺人予防』

古くは、『無知の涙』『木橋』を世に残して
1997年に刑場の露と消えた
連続殺人犯、永山則夫(*2)もそうです。


もっと古くは小松川事件(*3)の無差別殺人犯、
在日朝鮮人の李珍宇もそうです。


そして彼らは、
「書く」「言葉にする」ことによって
明らかに人格が変わっていきました。

それを、私たちは
彼らがこの世に残した言葉を読むことで
たどることができます。

周囲が、すでに獄中にある彼らの生い立ちを理解するにつれ、
彼らは殺人犯であるまでに追い詰められる
必要性を感じなくなったから、
彼らは人間として変わっていったのでしょう。

しかし、そのとき彼らはすでに、
いつ死刑に呼び出されるかわからない日々を送っていたわけです。


「無差別殺人事件を起こす」
「自分の生の声を社会へ出す」

この二つの行為の順序を、
逆にすることはできないか、
と私は考えているわけです。

生の声を社会に出し、
社会によってその人がその人であることを先に認めれば、
その人は無差別殺傷事件など
起こさなくてもよくなるのではないか、と。

「書く」「言葉にする」
という行為までも、

ペンの暴力

などと軽々しく否定するような輩は、
私に言わせれば、
けっきょく無差別殺人事件の間接的加害者です。

シャルリ・エブド事件におけるテロリスト支持派です。

しかも、主犯である加藤智大や永山則夫や李珍宇とちがって、
自らはけっして警察につかまることもなく、
一生逃げおおせて、同じような加害をつづけることでしょう。

こういう輩、反市民を生み出す市民を、
私は許すことができません。


……とはいえ、
痴陶人さんがこのへんのことは百もご承知であることは、
私も承知していながらこのへんのことを書いております。

私も、一生、同窓会には行かないでしょう。

しかし、その理由は、いっけん、
「自分の現状を旧友にさらすことが恐ろしいから」
であるようでありながら、
じつは、

「そういうところへ出ていって
虚勢をはりあうことに
自分が価値を見出していないから」

であるように思います。

同窓会へ出ていく人は、
それが何らかの意味でビジネスと結びついているからではないか、と想像します。

まったくの懐旧の情だけで、
人は同窓会に出ていくものでしょうか。

私にも会いたい、高校時代の旧友は、少数、おります。

しかし、生きているうちに彼らに会うとしたら、
それはおそらく同窓会ではないでしょう。

 



 


・・・「父から逃げられない私(50)」へつづく
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