VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

父から逃げられない私(54)治療者-患者とデクノボウ

父から逃げられない私(53)」からのつづき・・・

 
2016年4月30日収録
 
ナガレ 塞翁先生としたら、あんまり守備範囲を広げたら
 しんどいんじゃないかな。

ぼそっと池井多 それはわかる。あの御年だしね。

 でも、じゃあ、塞翁先生の顔を立てるために
 私は自分の被害をなかったことにするかといったら、
 そうはいかないわけですよ。

 私は、自分の治療のために
 塞翁先生にかかったわけですよ。

 自分の治療を棚上げにして
 塞翁先生の夢を実現することはできません。

 塞翁先生の夢を実現することの方に
 ウエイトがかかっていくのは、
 ほんらいの精神医療ではないと思います。

ナガレ あの御年の人が夢の実現なんて
 考えているのかね。

ぼそっと いや、もちろん。
 たとえば、リカモリ制度は塞翁先生の夢の実現でしょうね。

 それとやっぱり、
 近親姦被害者たちを虐待の前面に押し出すということも。

ナガレ だって、今度のリカモリ第3期も
 15人しか募集しないんだってよ。
 今度は週一日に減るわけだ。(*1)

*1.リカモリ講座第3期が週一日になった理由は、
 第2期が日曜コースと平日コースの2コースあり、
平日コースが2年間かけて受講するものであったため
平日がふさがっていたからである。
また、15人しか募集しないというのも事実でない。
じっさいは開講後の5月になっても募集は続いていた。
プレ講座には、外部からのカウンセラーなども参加したようだが、
プレ講座の中身を聞いて
彼らプロたちは本講座には申し込まなかったため、
空き人員ができて、5月以降も募集した模様。
その結果、被暗示性の高い患者が穴埋めとして引き込まれ、
なんとか定員を満たしたらしい。

ナガレ ということは、もう
 リカモリ講座の存続をあきらめているのではないか。

ぼそっと それはNPO法人ザストの
 今後の運営にもかかわることだから、
 ちょっと横へ置いておきますが、
 私は塞翁先生の実績を否定しているわけでも何でもない。

 ただ、私には私という患者の行き方(生き方でなく)がある
 ということを申し上げているわけです。

 春日局さんがそうであるように、
 自分自身の人生を捧げてまで
 塞翁先生の自己実現に尽くす必要は
 私はないと思う。

ナガレ ただ、君が阿坐部村という共同体において
 上位層にいる男性患者たちを「宦官」だという。

ぼそっと はい。

ナガレ 「宦官」って、クリニックの正職員のことかな。

ぼそっと そこはちょっと難しい問題がからむのですよ。

 20世紀フランスの有名な精神科医ジャック・ラカンは、
 
 が恋愛するとき、相手は女性だ。

 が恋愛するときも、相手は女性だ。

 と言っています。

 これは、なにも
 レズビアニズムの話をしているのではありません。

 これは何を言っているかというと、
 ようするに「客体」の問題なのです。

 女性性とは客体性である、と。

 客体、受け身の側、視られる対象。

 逆に、主体をもって視る側にまわる者、
 それを「男性」とラカンは呼んでいるわけです。

 そこで「宦官」という表現が出てきます。
 もちろん、象徴的な意味ですね。

 象徴的に去勢されている存在としての宦官です。

 この17年間ふりかえってみて、
 塞翁療法において「去勢」という言葉が、
 やはり必要以上に使われてきた、と思うのです。

 それはやはり男性患者を去勢し、宦官にするためです。

 男性性=主体
 女性性=客体

 そういうことをラカンは云っているのだと思う。

 ……。

 もう少し、話をわかりやすくしましょう。

 昨年(2015年)5月ぐらいの
 私の塞翁診察での一コマです。

 塞翁先生はこう言いました。

 「あなたは、私に会うたんびに、
 『母を呼べ、母を呼べ』
 って、そればっかりだよね。

 それじゃあ、まるで私がデクノボウじゃないの。」

 たった、これだけの言葉なんだけど、
 この短いセリフは塞翁療法とは何かを端的に語っているのです。

 「母を呼べ、母を呼べ」
 というのは、
 じっさいに私が文字通りそう言っているのではなく、
 私が塞翁先生に、
 「家族療法を期待しております」
 ということを、そういうふうに表現しているのでしょう。

 しかし、そういうふうに私がニーズを訴えると、
 私ぼそっと池井多という患者に対して
 塞翁先生が自分をデクノボウと感じる
 ということを
 この短いセリフは語っているわけです。

 デクノボウとは、この場合「客体」と置き換えてよいでしょう。

 治療者-患者 の関係で、
 患者に主体があると、
 塞翁先生はデクノボウと感じてしまう。

 だから、いつもはその逆、
 治療者-患者 の関係で
 治療者が主体の治療をやっているのが塞翁療法。

 ……という話になります。

 これは私たち患者村に長くいる人たちには、
 あまりにも当たり前になっているので、
 かえってわかりにくいと思います。

 しかし、医療というのは、患者のためにあるもの。

 治療者-患者 の関係において
 患者が主体であるのは 当たり前じゃないの
 ということを私は申し上げているわけです。

 「治療者の自己実現を図るために
 私たち患者はここにいるんじゃありませんよ。

 患者は、自分の主体的な自己実現をはかるために
 この医療機関へ、この診察室へ、来てるんですよ。」

 というのが私の申し上げていること。

 この違いがすごく明らかになったのが、
 さっき挙げた、
 たったあれだけの塞翁先生のセリフでした。

 そういうことを言っているのです。

 さいおうクリニックに通っている人たちのなかには、

 「塞翁先生のためなら、
 私はデクノボウでも客体でも何でもなります。

 私をタダで使ってください。
 もともと私には値打ちなどありませんから。

 塞翁先生の好きなように、
 私のたった一回の人生を使ってください」

 という患者が多いのだと思うのですね。

 こうなると、
 「精神医療っていったい何でしょう」
 と私は問題提起させていただいているわけです。

 ……。
 ……。
 
 
・・・「父から逃げられない私(55)」へつづく
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