VOSOT ぼそっとプロジェクト

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三島由紀夫を読み返す(25)吉本隆明の三島観

三島由紀夫を読み返す(24)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

この「三島由紀夫を読み返す」というシリーズでは、
昭和生まれの日本の男性の、とくにインテリ層が、
いかに根深く三島由紀夫という作家によって
「男らしさ」というジェンダー概念を増幅され、
それを内奥に宿しているか、ということを、
さまざまな入口から掘り返している。

今回は、
「ある意味では三島にとって最大のライバルだったのでは?」
とも思われる、
戦後日本の最大の思想家、吉本隆明が、
どのように三島を見ていたのかを
時代の異なる二つのテキストから見てみたい。

基本的なことをおさえておくと、
三島由紀夫吉本隆明は同学年(大正13年度生まれ)である。

人はだれしも、自分と同じ学年や齢の者と
やはり自分を比較したくなるものではないだろうか。

とくに進む方向が似ていたり、正反対であったりすると
なおさらそうである。

吉本のほうが三島より3か月ほど誕生が早かったわけであるが、
奇しくも吉本の誕生日は、三島が腹を切った忌日と同じである。

生地も、ともに東京。

こうした一致も、意識しないことはないと思う。

ただし吉本は同じ東京でも
もんじゃ焼きで名高い下町、月島の出身。
三島が生まれたのは
いまの新宿御苑の近くの四谷4丁目であり、
45年の人生を壮絶な割腹で終わらせる場所から
わずか約1.2キロしか離れていない。



 
 
 
まずは三島事件から3か月後、
いまだ衝撃が生々しかったであろう時期、
1971年2月に吉本隆明が三島について書いた文章である。(*1)
このとき吉本、46歳。

*1.「暫定的メモ」
『文藝読本 三島由紀夫』所収 河出書房新社 1975年
仮名遣いは原文のママ。
引用者により改行、空白行をくわえた部分あり。
太字、色字は引用者による。
本文中、傍点省略。
文中、山カッコ< >が多用されるが、
この点は吉本の原文に忠実である。

暫定的メモ


三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。これは衝撃である。この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを<コケ>にみせるだけの迫力をもっている。

この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの<檄文>や<辞世>の歌の下らなさ、政治的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写させるような所にあらわれている大向うむけの<醒めた計量>の仕方等々の奇妙なアマルガムが、衝撃に色彩をあたえている。

そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。
<どこまで本気なのかね>。
つまり、わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。
この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。そしてこの答えは一瞬
<おまえはなにをしてきたのか!>
と迫るだけの力をわたしに対してもっている。

(……中略……)

青年たちのうけたであろうこの衝撃の質を、あざ嗤うものはかならず罰せられるような気がする。そして、この衝撃の質は、イデオロギーに関係ないはずである。どんなに居直ろうと、
<おれは畳のうえで死んでやる>
などという市民主義的な豚ロースなどの弛緩した心情になんの意味もないのだ。

(……中略……)

愚行を演技したものにむかって、愚行だと批難しても無駄である。ご当人が愚行は百も承知なのだ。

三島由紀夫に先をこされた。左翼もまけずに生命知らずを育てなければならぬ>という左翼ラジカリズム馬鹿がいる。
三島由紀夫のあとにつづけ>という右翼学生馬鹿がいる。
そうかとおもうと<声明を大切にすべきである>という市民主義馬鹿がいる。
三馬鹿大将とはこれをいうのだ。

(……中略……)

真の反応は三島の優れた文学的業績の全重量を一瞬のうち身体ごとぶつけて自爆してみせた動力学的な総和によって測られる。そして、これは何年かあとになって必ず軽視することのできない重さであらわれるような気がする。

(……中略……)

三島由紀夫自死の衝迫力は、いままで知識人であったものから蒙昧をひきだし、いままで正常にみえたものから狂者をおびきだし、いままで左翼的な言辞をもてあそんでいたものから右翼的言辞をひきだし、いままで市民主義をひけらかしていたものから、たんなる臆病をひきだし、いままで公正な与論を装ってきたものから、狼狽した事なかれ主義の本性をひきだした。

(……中略……)

三島由紀夫の<死>にたいする観念には、きわめて<空想>的な部分がある。それは、かれが<法>に抵触した行為をしたときには<死>ぬべきだとおもいつめていたところによくあらわれている。
この思いつめは、もともと本質的な弱者であり、本質的な<御殿女中>である封建武士が考えだしたものである。

(……中略……)

三島由紀夫の<天皇陛下万歳>は、これを嗤うこともできるし、時代錯誤として却けることもできる。また、おれは立場を異にするということもできる。しかし、残念なことに天皇制の不可解な存在の仕方を<無化>し、こういうものに価値の源泉をおくことがどんなに愚かしいことかを、充分に説得しうるだけの確定的な根拠をたれも解明しつくしてはいない。したがって三島の政治行為としての<死>を完全に<無化>することはいまのところ不可能である。

(……中略……)

わたしはこの同世代の優れた文学者を二度近くで<視た>ことがある。一度はもう二十年ほども前、知人の出版記念会の席であった。もう一度は去年の夏、伊豆の海からの帰り、三島駅から乗った新幹線のおなじ箱に、熱海駅から乗り込んで、わたしの席の四つほど前に座ったのをみた。これが因縁のすべてであるといいたいが、かれは一度、編集者の求めに応じて、わたしの評論集に、親切な帯の文章をよせてくれた。かれは嫌いながらも文士や芸術家や芸能人たちによくつきあい、わたしは嫌いだからつきあわないので、一度も言葉をかわしたことはなかった。
これは幸いであった。わたしにかれの死が<逆上>も<冷笑>ももたらさないのはそのためである。

(……後略……)

つぎは三島事件から32年後。
2002年に吉本隆明が「ひきこもり論」のなかで
三島について書いた文章である。(*2)
このとき吉本、78歳。

*2.吉本隆明『ひきこもれ ― ひとりの時間をもつということ』
大和書房、2002年
改行、太字、色字は引用者による
見出し、小見出しは原文を尊重

 大人になってから親の代理死としての自殺をした三島由紀夫

  三島由紀夫さんは「傷ついた子ども」たった

大人になっても親の代理死としての自殺をする人がいます。
太宰治三島由紀夫といった人は、
その要素が強いといえるのではないでしようか。
二人とも、
傷つけられた子どもがそのまま大人になって
文学をやったような面があります。

かれらが死を選んだのは、
実は親のせいである部分がかなりあるのではないか
とぼくは思っています。

三島さんなどは、
まさに「傷ついた子ども」だったのだと思います。
そのためにずいぶんと、他人に言えない苦労をしたはずです。

彼の育てられ方は、とてもめちゃくちゃです。
母親は赤ちゃんが可愛くてしょうがなかったのですが、
かましいおばあさんがいた。
神経症と言っていいほどのおばあさんです。
で、
「おまえなんかと暮らしていたら、
子どもはろくな育ち方はしない」
などと母親に言って、
生後一週間くらいから自分のそばに寝かせて、
自分がかよって、お乳をやる時だけ母親のところに連れていく。
そんなことをして、その人がまともに育つことなんかありえないとぼくは思うのです。


  世界的な作家といわれるよりも

三島さんは長じてから、それを克服するために、
武田泰淳という人の言い方を借りれば「刻苦勉励」した。
文学というものに出会った時に、
自分の傷を帳消しにしようとして、
たゆみなく刻苦勉励したのです。

三島さんは天才的な人で、
世界に知られる作品を残しているけれども、
しかし、この人が他人には言えず、
自分で克服したいろんな問題というのは
計り知れないぐらい大きかっただろう
と思います。

いつも死にたくてしょうがないとか、
もう死んでしまおうとか、
そう思いながら、
我慢して勉強して作品を書いていたのでしょう。

彼のような人生を見ると、
人間にとっていったい何か幸福なのだろう
と考えてしまいます。

大部分の人は、あまりいい育ち方はしてないというか、
一〇〇パーセントからはほど遠い育てられ方をしています。
それは母親のせいでもないし、子どものせいでもなく、
ただ環境がそういう環境でしかなかったわけで、
誰のせいにするわけにもいきません。

だから三島さんのような人は、
自分なりの意志力でもってそれを克服し、
人に言えない苦労をして、
その結果、他人に尊敬されるような大作家になった。

それはそれで報われたのではないか、
立派で幸せな人生だったのではないか
という考え方もあるでしょう。

でも、本当は違うぞ、
とぼくなどは思うのです。

それは三島さんに直接、聞いてみなければわからないのでしょうが、彼にとって、生きるということはあまりにもつらすぎたのではないかと思えてならないのです。

世界的な作家といわれ、
社会的な地位や発言力をもつことよりも、
自分が接する家族と文句なしに円満に、気持ちよく生きられたら、
そのほうがはるかにいいことなのではないか。
そんなふうにぼくは思うのです。
吉本隆明は、若いころから
「虚飾を除いて、できるだけほんとうのことを言おう」
としてきた人だと思う。

たとえ「空気が読めない」だの、「流れに逆らう」だのと
周囲からさんざん叩かれようとも、
「ほんとうのことを言う」
ということを、言葉を発することの本義としてきた人だと思う。

その点で、吉本と三島は正反対である。

三島も、さかんに周囲と戦って言葉を発したが、
三島の場合、その戦いは、
いかに「ほんとうのこと」を言わないか、
という方向で進められたのではないか。
とくに晩年になれば、なるほど。

そんな吉本は、
まだ若い頃、1971年はその時なりに
三島に関して「ほんとうのこと」を言っているのだろうが、
それでも、まだ政治であるとか、表層的事象への言及が多い。

もちろん三島の叫んだ「天皇陛下万歳」を真に受けたような
単細胞的な政治談議はさすがにやらないが、
それでも、三島があのような壮大な演劇を挙行した背景を
やはり政治的な状況からも解析してもいる。

吉本自身が、まだ生々しく政治の渦中にいて、
そうせざるをえないという側面もあっただろう。

それが32年後、吉本自身も老いてきて、
外殻をそっちのけにして
物事の本質だけを語るようになってくると、
もはや政治のセの字も出てこなくなり、
そのかわり、出てくるものは
「成育歴」であり「母子関係」となっていった。

このことは、私のような探求をする者にはとても重要に響く。

円熟とは、必ずしも何かが綜合されていくことではなく、
よけいなものがそぎ落ちていくことではあるまいか。
 
だとすれば、
そうした意味での円熟を、
私は吉本の三島観に感じるのである。






・・・「三島由紀夫を読み返す(26)」へつづく
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