VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(26)本質的な弱者

三島由紀夫を読み返す(25)」からのつづき・・・

by 痴陶人 × ぼそっと池井多
 
 
同学年
 
 
痴陶人
思えば、私とぼそっとさんとの出会いは、
三島や吉本とやはり同学年で、
東大の同窓でもある吉行淳之介と三島の対比を
紅孔雀さんのブログで私がやった文章に、
ぼそっとさんがコメントをくださったことから始まりました。

同学年の作家の対比という試みを含め、
ぼそっとさんと私の発想というか、指向性には、
とても似たところがあり、いつも驚かされます。

そして面白いのは、ぼそっとさんと私が同学年だということです。

私とぼそっとさんの三島観には、
若干の違いはありますが、大筋では同じだと思います。

吉本もいうように、
三島の物語は、刻苦勉励して、
ある者からある者になった人間の物語です。

それは、優等生が文学者になった、
凡人が英雄になった物語である以前に、
男でない者≒女が男になる物語だと私は思っています。

私の知る限り、
三島を犯罪者や弱者として見る発想を私以外にした人は、
ぼそっとさん以外になく、
それが吉本隆明に補完されたとなると、
やはり間違いではないと言わざるを得ません。



[ 痴陶人 ] 2017年3月20日 23:10
ぼそっと池井多

人ぞれぞれ特性がちがうから、
「同じ年月だけ生きてくれば同じように咲く」
なんてわけはないということはわかるのだけれども、
どうしても人は同学年というだけで
比較したがる性癖がありますね。

「人は人、自分は自分」

と頭ではわかっていても、
なかなか心まで浸透していかないものです。

トラウマその他の原因で
人生の進度が世間並みでない人たち世界ではとくに、

「同級だったあいつが結婚した、子ども作った、
家を建てた、クルマ買った」

と比較や羨望をして、自らを苦しめ、
よけいひきこもるケースが多いように思います。

いっぽうでは、痴陶人さんと私がそうであるように、
まったく別の場所で育っても、
時代背景が同じであるために、
「話が早い」とか、
認識の基礎が共通している、といった利点もありますね。
 
 
 
痴陶人
 
吉本隆明の「暫定的メモ」は、以前、
今は閉鎖している私のブログでも取り上げました。

私がこの小論を優れていると感じたのは、
ぼそっとさんも太字、赤字で強調されているこの部分です。


この思いつめは、もともと本質的な弱者であり、本質的な<御殿女中>である封建武士が考えだしたものである。

何故か三島の自決は、文学者の自殺、政治的警告と解され、
英雄視され勝ちで、
どちらかというと、強者の死と解釈され勝ちですが、
吉本は、その自殺の方法(切腹)も含め、
それが「本質的な弱者の死」と見抜きました。

これは、澁澤龍彦が三島の死を
文学者の死でも、政治的な死でもなく、
あくまで個人的な死であると言い切ったのと双璧で、
私は注目したわけです。

この二人の文芸評論家だけが、
三島の死の直後、三島の死の本質を捉えていたと私は思います。

今回ぼそっとさんが牽いている吉本の「ひきこもり論」は、
初めて知りましたが、
さすが吉本、三島の本質にさらに近づいていますね。

「親の代理死」「親のせい」「傷ついた子供」、
ぼそっとさんが太字にされた部分は、
私の至っている三島解釈と同じで、
吉本もやはりそこへ至っていたのかと嬉しく思いました。

私の言葉で語るなら、三島の自決は、
「諫め死」を装った「腹いせ死」で、
吉本は三島を死にたい願望といいますが、
私はそれを「死んでやりたい」願望ととらえています。

三島の死には、
死ぬのではなく、私には
「死んでやる」
というどこか仕返しの意思を感じるのです。

この「死んでやる」という腹いせは、ある種の甘えです。
そして、この「死んでやる」は、親の代理死とも繋がってくる。

その事を読み解いている吉本は、やはり素晴らしい。

「死んでやる」は、
ぼそっとさんのお母様の口癖ですが、
私がお母様も被虐待児だったのでは、
といったのは、この死んでやるでした。

お母様は、親との関係のベクトルを子に向けた、虐待の連鎖ですね。

「死にたい願望」と「死んでやりたい願望」の違い、
ここは重要です。

因みに私には、「死にたい願望」より、「死んでやりたい願望」が強いです。


[ 痴陶人 ] 2017年3月20日 6:48
ぼそっと池井多
 
私も、三島事件直後に発表された文章のなかでは

吉本隆明「暫定的メモ」


澁澤龍彦「絶対を垣間見んとして・・・」

の二つが優れていると思います。

ほんとうに三島のことを「わかっている」同時代人の文章です。

他の三島評は、

「言葉のプロのくせに、
 いったいどこまで三島がわかってんだか・・・」

というようなものばかりでした。
 

痴陶人
 
死んでやりたい願望が、
一種の甘えだというのは、
子供が自分の思い通りにならない時、
泣いてぐずったり、奇声を発するのと同じだということです。

子供は、あそこで死んでやると自分の主体を賭けて、
親と闘っているのでしょう。

しかしそれは、
親に交換条件を突き付け、
何か自分のおもい通りに親を動かしたい
という甘えな訳です。

子供は、親との駆け引きで、
そうそう自分の思い通りにならないことを学んで行くわけですが、
この第一次反抗期のない子がいる。

私なんかもそうですが、所謂いい子です。

このいい子というのが厄介で、
親の意図を先読みして、決して親を困らせない。

ところが、自分の思い通りにしたいという願望は、
勿論いい子にもあるわけで、
いい子の願望は、鬱積し、爆発し「死んでやる」となる。

だからぼそっとさんのお母様も、被虐待児でなかったとしたら、
一流女子大も出られているとですし、きっといい子だったに違いない。

勿論三島は、超一流のいい子でした。


[ 痴陶人 ] 2017年3月21日 11:09
ぼそっと池井多

私が家族から放逐されるにさいして
私の人生のなかでは記念碑的な事業として、
1999年 家族会議
というのをやったわけですが、
ここでの私の主眼は、
母が被虐待児であった過去を知る、
ということでした。

私の母の口癖、
死んでやるからね
は、深く掘り下げるべき課題だと
私も思っております。

「いい子」というのは、
フロイト流にいえば「超自我の肥大」ですね。



 
 
 
・・・「三島由紀夫を読み返す(27)」へつづく
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