VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(29)共時性と共感性・何の変哲もない日常を語る効用

三島由紀夫を読み返す(28)」からのつづき・・・

by 痴陶人
 
痴陶人
シチリア繋がりで「シチリアの娘」(*1)から、
映画監督ジュゼッペ・トルナトーレを思い出し、
昨秋見逃していたトルナトーレの最新作「ある天文学者の恋文」を
ツタヤでDVDを借りて見ました。


この作品自体が、
「奇妙な共時性」を描いた作品なのですが、
私自身にとっても
その共時性(シンクロニシティー)を感じさせる作品でした。

例えば、本作は、
四十才以上も年の離れた男女の話であり、
しかも手紙でのやり取りだということです。

思えば前作「鑑定士と顔のない依頼人」も
「四十才以上も年の離れた男女の物語」でした。

鑑定士と顔のない依頼人」は、
恋愛に臆病で、老齢になるまで女性体験のない美術品鑑定士と
謎の若い女との恋の物語ですが、
その結末は、老人にとって、悲劇として描かれます。
つまり、四十才以上も年の離れた恋は
不可能であるという物語なわけです。

恐らくトルナトーレは、
その恋を可能なものとして描きたかったのだと思います。

愛の可能と不可能という問題は、
ドストエフスキー三島プルーストを通じて、
私の研究対象でもあるわけですが、
何故私がトルナトーレに心ひかれるかに、
今回私は、期せずして気づいたというわけです。

トルナトーレは、ヒロインに、
どこか東洋的な黒目黒髪の女性を抜擢していますが、
作中彼女のハンドルネームは「カミカゼ」ですから、
トルナトーレの世界観に、
どこか日本的なものへの憧れがあるのだと思います。

本作に私が感じた共時性とは、
言葉にすると曖昧なのですが、
例えば、「四十才以上も年の離れた」女性との
恋を実践されてきたらしい迷えるオッサンさんと
ぼそっとさんとの会話に表れた受容体としての
女性の愛の可能性や、
恋人でも父娘でも呼び方は何でもよい、
手紙でのやり取りの中に本質的なエロスの交歓がある(私の解釈)
というgoodじいさんさんの発言なども含まれています。

ぼそっとさんは、このぼそっとプロジェクトで、
私が同窓生のナガレと再会?したことを、
当時シンクロニシティーと言われました。

その時、私には
その意味するところがよくわからなかったのですが、
思えば、こういう共時性は、私によく起こる現象です。

しかし、このブログで起こっている共時性は、
私に起こっているのではなく、
全てぼそっとさんが呼び起こしているのです。

つまり、迷えるオッサンさんもgoodじいさんさんも私も、
ぼそっと池井多という男の発信する世界観に共鳴し、
引き寄せられているということです。

そしてそれは、マリアテレサさんも例外ではありません。

例えばぼそっとさんとマリアテレサとの出会いを
大佐という方との出会いに、
共時性として語られる豚猫大好きぶーにゃんさんもそうですが、
ぼそっとさんのやられていることは、
マイノリティだからこそ、同じマイノリティにとっては、
強烈な求心力を持つ世界として存在しているのだと思います。

例えば「スパゲッティーの惨劇」を読んで、
あっ!これは私にも起こっていた事だ!
と思われた方がいたとします。

その方にとっては、
その共時性が、奇跡のように感じられますが、
それは単に、そういうことを誰も語らなかっただけで、
語る者がいれば、それは誰にでも起こっている現象

だということです。

文学とは、そういうことを語ることで、
ドストエフスキーも三島もプルーストも、
それを実践したに過ぎない。

今回のことで私は、
共時性とは共感性が作る一つの科学的な因果関係であり、
カミカゼでも、神秘主義でもないことがよくわかりました。

ぼそっとさんの言われる本人には、
何の変哲もない日常を語ることの効用は、ここにあります。

ドストエフスキーはともかく、
マリアテレサの出てくる土壌、その可能性を私は、
ぼそっとさんプロジェクトに見ています。
 
 
 
・・・「三島由紀夫を読み返す(30)」へつづく
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