VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(30)シンクロニシティという包丁

三島由紀夫を読み返す(29)」からのつづき・・・

by goodじいさん×miss ×痴陶人
edited by ぼそっと池井多
 
改行、細部の改訂は編集者による。
 
goodじいさん
痴陶人氏には或る部分見透かされていますね。^^

トルナトーレ監督「鑑定士と顔の無い依頼人
「ある天文学者の恋文」
僕も見ました。

趣味が映画鑑賞、本、音楽なんです。
見たい時に、読みたい時に、聴きたい時にがモットーです。
若い頃ふらふらした反動かもしれません。

痴陶人さんの様に
研究としてみる、きく、読むは僕には無理です。
僕自身埋没してしまう事を怖れているのでしょう。

名前の挙がった
ドストエフスキー、三島、プルースト
本棚にずらりと鎮座しております。
今では並んでいるだけなのですが・・

今回共感したのは
「誰も語らなかっただけで、語るものがいなければ、それは誰にでも起っている現象」

「確かにその通り!」
と頷いていました。
 

[ goodじいさん ] 2017/6/20(火) 午後 5:09 
痴陶人
> goodじいさんさん

コメント有り難う御座います。

私の研究は、言葉の綾です。

例えば、トルナトーレの映画は、今更ながらですが
モリコーネの音楽に勝ったことがありません。

そういう見方をしています。  


[ 痴陶人 ] 2017/6/20(火) 午後 8:20
miss:
>例えば「スパゲッティーの惨劇」を読んで、
あっ!これは私にも起こっていた事だ!
と思われた方がいたとします。

はい、ここにいます。私です。
自分のことだと思いました(笑)。

この共時性は、正に共感から生まれたものと感じます。
当初はおそらく、ブログを眺めながら、
自身のことをコメントに・・などと、私は考えてはいませんでした。

でも次第に、多分遠い所、無意識にでも、
「何か共感できる所、触れ合いたい」
と感じ始めたのだと思います。
そこへ、たまたま「スパゲッティの惨劇」を見て。

この間の時間が、どれくらいだったかは、
はっきり覚えていませんが、
まだ自覚こそしておらず、
「何か書きたい」という思いが意識まで降りてきて、気づくまで
そう長くはなかったように思います。

今もひょっとして、
私はまだ気づいていない「何か」を先取りして、
この投稿の機会を頂いたのかもしれませんね。

いつもありがとうございます。


[ miss ] 2017/6/20(火) 午後 5:38 
痴陶人
> missさん
そうでしたね。スパゲッティーに共感して、登場したのがmissさんでしたね。

共感性に共感してくれて、有り難う御座います。  


[ 痴陶人 ] 2017/6/20(火) 午後 8:25
痴陶人
言い方を変えて補足しておきます。

例えば、感受性豊かで早熟な精神科医志望の
マリアテレサという類稀な少女が出現した時、
我々は、それを何らかの符号と思いたがります。

私自身も一瞬そのような人物として、
メッシアの到来と思いたがった部分があり、
反省しているのですが、
何故彼女がぼそっとプロジェクトに登場したかは、
ぼそっとさんがHIKIKOMORIについて、
海外に向けて、記事を発信した。
その記事に、マリアテレサが共感し反応した。
その共感性という一事に過ぎないということです。

それが偶々、異国の16歳の少女だったというだけで、
それ以上でも以下でもありません。

私とぼそっとさんが同い年で、
同じようなことを考え生きてきたということも、
同い年だからという共時性もあるかもしれませんが、
ある方のブログで私が書いた文章を、
ぼそっとさんが発見してくれ、
その後の交流が、
私のぼそっとプロジェクトへの参入を生んだというだけで、
ここでも共時性というよりは、
共感性がその交流の主な理由になるわけです。

ぼそっとプロジェクトに何故ナガレがいたか。
これは、少し共時性を言いたくなりますが、
まず、ぼそっとさんとナガレは、
今は正反対の立場であろうかと思われますが、
塞翁先生が90年代から00年代に書かれた先生の著作への共感性があった。

つまり、共にACだったということですね。

そして私もACだったから、ぼそっとさんに共感しただけで、
私とナガレが同窓生というのは、
マリアテレサが16歳であるのと同じく、全くの偶然に過ぎません。

そこで問題は、マリアテレサのいう社会文化的コンテクストです。

ぼそっとさんとナガレと私は、たまたま同学年ですが、
いわゆる共通一次世代にACを生む何かがあるのか、
例えば、親が戦前戦中派というようなコンテクストです。

この文脈は、マリアテレサのお父様にまで敷衍できます。

日本とイタリアの共通性を見ると、
帝国主義ファシズムまで登り詰めた国家が
敗戦を体験して復興する登頂の世代の息子としての1962年
という見方があります。

イタリアがヨーロッパで最もHIKIKOMORIに相当する存在が多いというのも、
こういうことが起因しているのかもしれません。

社会文化的コンテクストは重要ですが、
ただあまりそれを重視し過ぎると、
共時性同様、こじつけになることも多いのかもしれません。

確かに私には、共時性の神秘が起こることが多く、
例えば、私の父が何故憂国忌に死んだのか
というようなことをついつい考えてしまうのですが、
今回のことで、私は、
私にそのような不思議な共時性が何故起こるのかを、
共時性ではなく、私のあてはめ癖、
つまり過剰な共感性にこそ
その理由があるのではないかと思えてきたわけです。

三島に興味のない人間の父親が、11月25日に死んだら、
その人にとって父親の命日は、共時性でも何でもなく、
単なる11月25日でしかないということです。

三島への共感性が、共時性に見せるということですね。

今の私にとって、ユングシンクロニシティー、共時性は、
共感性として全て否定できるものとして再確認出来ました。

まあ、否定する必要もないのですが、殊更いう必用もないと。


[ 痴陶人 ] 2017/6/20(火) 午後 6:21
 
ぼそっと池井多
 
世界の一つの断面図、あるいは
一つのものの見方にすぎないと、私は思っております。

たくさんあるうちの一つの。

ラカンは、筋金入りのフロイト派でしたから、
ユングのこういうところが
イカサマ師に思えて鼻についていたのか、
まったくユングの概念をもちいずに、
ユングと訣別したフロイトの概念だけを使って
ユングのいう共時性がなぜ起こるのかを説明してみせました。

文系科学では、そういうことがよくありますね。

古代ギリシャ以来の哲学用語を何ひとつ使わないで、
アメリカ先住民の言語でカントが翻訳されているとか、
「わび」「さび」「粋」「はな」など日本美学の言葉だけで
イタリア美術が解説されるとか。

きっと使い慣れた包丁を使えばよいのでしょう。

痴陶人さんは
これまで「シンクロニシティ」という三徳包丁でさばかれていた大魚を
いま「共感性」という新しい刺身包丁で、
料理し始めた、といったところでしょうか。

マリアテレサのいう社会文化的コンテクストには、
私はとても世代的なものを感じます。

ある種、ポストモダンだなあ、と感じるのです。

痴陶人さんや私も、いつも
「ことばは文脈から読まなくちゃだめだ。
あいつは文脈がわかってない」
ということを言います。

ある言葉は、その言葉だけを見たら、
何やらわけわからないことになるけれども、
文脈(コンテクスト)からみたら、
どう解釈すべきかわかってくる、
といった場合が多いからです。

私は、父親像を投影した人がサルトル主義者だったので、
どうしてもフランス哲学を軸に考えてしまいますが、
やはり、そういう見方って、
すごくサルトル世代的なのかもしれません。

だいたい、サルトルの自伝のタイトルが
『Les Mots(言葉)』ですからね。

それ以降、バルトやフーコーなど
構造主義だのポストモダンだのいわれた人たちは、
文章だけを文章としてみない。

この世で起こっていること、いわば森羅万象を
言語(ロゴス)や
文章(エクリテュール)としてみることによって、
人間の営みを明らかにしていくようなところがあります。

たとえば、映像の世界でも、
タルコフスキーの映像言語において『水』は…」
といった言い方があるでしょう。
ああいうふうに、あるいは
あの延長みたいな感じで「言語」を敷衍する。

すると、マリアテレサのいっている
社会文化的コンテクストとは、
この世界に流れる空気や関係性といってよいでしょう。

たとえば、手と手が触れ合うという
たったそれだけの現象も、
朝と夜では、満員電車とバーでは、東京とシチリアでは、
まったく意味がことなってくる。

だから社会文化的コンテクストから見なくてはいけない、
と彼女は言っているのだと思います。

私の翻訳がおおざっぱなので、
もしかしたら、そのへんが
読者の皆さまにつたわっていないかもしれないので、
遅ればせながら少し補足させていただきました。
 
[ ぼそっと池井多 ] 2017/6/20(火) 午後 11:21
 
 
 
・・・「三島由紀夫を読み返す(31)」へつづく
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