VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

父から逃げられない私(67)虐待されたと認識する患者の主体

父から逃げられない私(66)」からのつづき・・・

 
 
ナガレ そう考えてくると、そのう
 児童虐待の被害者を、被害者として扱うことも
 よくないこと、って考えられちゃうけど。

ぼそっと池井多 そこまで論点を広げていただけるとなると、
 たいへんありがたいですね。

 たとえば、いまここで私が
 「自分は母親からの児童虐待の被害者だった」
 というとき、
 なぜこの言葉がいわれうるかというと、
 いまの私が一人の人間として主体を持ち、
 過去をふりかえったときに
 「あれは児童虐待であった」
 と判断できるからなのです。

 精神科の治療者が、
 「あれは児童虐待であった」
 といっているからではない、のです。

 そういった意味で、
 精神科のトラウマ治療において
 患者に主体を回復させることは、
 虐待を虐待と認めることと関連して
 根源的に重要なのです。

 患者本人が、
 「あれは虐待ではなかった」
 といっているのに、
 治療者が
 「あれは虐待であった」
 と一方的にいっていて、
 トラウマの治療が進むわけがありません。

 患者の主体を回復させるのは、
 こうして、欠くべからざる治療の段階でしょう。

 ところが、塞翁療法では
 ひたすら患者を客体化し、デクノボウ化し、
 治療者のロボットにして、
 患者の主体をうばうことが目的になってしまっている

 リカモリ制度そのものが、
 治療者・塞翁先生の下僕として
 似非(えせ)カウンセラーとなることですからね。

 患者たちは、塞翁先生によって
 みんな客体化されてしまって
 主体の芽を摘まれていく

 主体の芽をもって回復しようという患者は、
 たとえば私のように悪者に仕立て上げられ追放される。

 これは、私が塞翁先生をあるていど評価しているから
 批判しているわけですよ。

 私は、塞翁先生が
 日本の精神医療に過去に果たした役割は
 それなりに大きいと思うので、
 それで批判している。
 どうでもよいものだったら、
 はじめから批判しません。

……。
……。
 
 
・・・「父から逃げられない私(68)」へつづく
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